第1章 印旛沼の歴史

1.1 印旛沼の誕生

 縄文から弥生時代の印旛沼は、現在の鹿島(茨城県)や銚子(千葉県)の方向から内陸に向かって広く開けた「古鬼怒湾(こきぬわん)」と称された内海の一部で、印旛浦と呼ばれていました。水は今のような淡水でなく、海水でした。利根川下流部の低地と台地が接する境界域の貝塚からは、アサリ、バカ貝、マガキ、ハマグリ、サルボウ、タマキ貝などの海産性や汽水性の貝類が数多く発掘されています。

 今から1,000年ほど遡った印旛沼は、第1.1図に示すように、現在の霞ヶ浦(茨城県)や北浦(茨城県)、牛久沼(茨城県)、手賀沼(千葉県)、そして千葉県の水郷一帯を一つにした「香取の海」と呼ばれた水域の一角にすぎず、水は、淡水と海水が混じり合った汽水であったと考えられています。

第1.1図 約1000年前における関東地方の地勢と印旛沼
第1.1図 約1000年前における関東地方の地勢と印旛沼

 その後、流域から河川が運んでくる土砂等の堆積や、海退によって徐々に陸化し、縮小していったといわれています。そして、印旛沼や、隣接の手賀沼などのような小さな入り江は陸化から取り残され湖沼化していきました。

 さらに、印旛沼の状況が大きく変化した決定的な出来事は、徳川幕府が行った「利根川東遷事業」です。徳川家康が江戸に入府した当時、第1.1図に示したように、利根川は関東平野の中央部を南流し、荒川を合わせて現在の隅田川筋をくだり江戸湾に流れ込んでいました。家康から4代将軍家綱の間、実に60年の歳月を掛けて、この利根川の流れを銚子の方向に向かわせようとする河道変更が行われました。

 この河道改修の目的は、江戸を水害から守ること〔当時、現在の東京の江戸川区葛西や台東区浅草あたりは、かなりの湿地帯で利根川(墨田川)が氾濫するたびに洪水に見舞われていました〕、新田開発によって農業の安定化を図ること、そして千葉県のみならず、東北地方や茨城県からの物資(産物)を運ぶための水運(舟運)ルートの整備などを目的として行われたものであると推測されています。 

 工事は、第1.2図に示したように、文禄3年(1594年)の「会の川の締め切り」工事に端を発しました(現埼玉県羽生市の北部に位置する川俣地区が工事の始点とみなされています)。その後、元和7年(1621年)に利根川を渡良瀬川に結び入れる新川通(現埼玉県の加須市から久喜市までの流路)及び江戸川の開削と並んで利根川東遷において最も大規模な事業であった赤堀川(現埼玉県久喜市から千葉県野田市関宿までの流路)の開削工事が着手され、続く寛永年代(1624~1643年)には江戸川、権現堂川(現埼玉県久喜市から茨城県五霞町の南部域を流れ千葉県野田市関宿で江戸川に通じるまでの流路)、逆川(権現堂川と江戸川の分岐点から茨城県の五霞町の東部域を通り境町地先の常陸川に至る流路)の開削、そして承応3年(1654年)には利根川を常陸川(鬼怒川)筋に結ぶ赤堀川の開削工事が完了し現在の利根河道の姿に変わりました。

第1.2図 利根川東遷事業の工事と現在の利根川
第1.2図 利根川東遷事業の工事と現在の利根川

 この長期にわたる工事の完成は、江戸を洪水から守る役割を果たしたと同時に、広く関東平野における洪水の防御、灌漑、新田開発に寄与し、また舟運整備によって江戸を中心とする関東各地、さらには東北各地を結ぶ物資輸送の動脈を確立しました。しかし、一方では利根川上流からの多量の土砂等が下流に運ばれ、堆積し、その結果として印旛沼は、利根川の氾濫のたびに利根川の水が沼に逆流し、多大な洪水被害を蒙ることになりました。

このように、徳川幕府が行った「利根川東遷事業」によって印旛沼は、「印旛沼開発事業」が完成する昭和40年代まで、まさに水害(洪水)とその防止の取組が繰り返される歴史をたどりました。

1.2 印旛沼の洪水対策と開発

 利根川東遷事業の完成後、印旛沼及び周辺で頻繁に起こった洪水(水害)は、ただ単に利根川の氾濫〔外水と称され、この氾濫は日光連山の降雨によって生じることが多かったため「日光水」ともいわれ、沼周辺の人々に最も恐れられていました〕のみによってもたらされただけではなく、印旛沼に流入する河川の増水〔内水と称された〕によっても引き起こされていました。

 このような状況を背景に、徳川幕府は利根川や印旛沼の洪水による被害を防止するとともに新田開発や舟運の整備等を目的として、江戸期に大規模な開発工事を約60年おきに計3回行いました。しかし、これらの工事は、いずれも金銭的、人的に大きな犠牲を払ったにもかかわらずすべて失敗に終わり、その後も印旛沼は、繰り返し洪水被害を被りました。以下に、江戸期に行われた印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に落とす「落し掘り」又は「掘り割り」と称される3回の工事とその後の印旛沼の歴史を左右する画期的な出来事として昭和期に行われた「印旛沼開発事業」について、順を追って詳しく記載します。

1.2.1 江戸期における掘割工事

 江戸期は元禄文化で代表されるように、下層町民や地方の農民にいたる庶民まで多彩な文化が飛躍的に発展する一方、社会的には凶作・飢饉が繰り返し起こっていました。なかでも、亨保6年(1721年)~亨保19年(1734年)の亨保の飢饉、天明2年(1782年)~天明7年(1787年)の天明の飢饉、天保4年(1833年)~天保10年(1839年)の天保の飢饉は江戸三大飢饉と称されていますが、特に天明2年(1782年)の奥羽地方の冷害から始まった天明の飢饉は、翌年の浅間山の大噴火が加わって、江戸時代最大規模の大飢饉となりました。

 このような深刻な飢饉を背景に印旛沼では、新田開発を目的の一つとして三度の大規模な掘割工事が行われました。工事の主な目的や実施方法は当時の社会的経済的状況を背景にそれぞれ異なるものの、工事計画は、いずれも印旛沼の西端にあたる下総国平戸村(現八千代市平戸)から検見川村(現千葉市花見川区検見川)の海岸までを水路で結び、印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に落とすことでした。しかし、掘割工事そのものはいずれもことごとく失敗に終わってしまいました。

(1) 享保の掘割工事

 承応3年に完成した利根川東遷事業後、利根川の洪水は頻繁に起こり、それが印旛沼に逆流し、沼尻にあたる下総国平戸村(現八千代市平戸)では、神崎川と平戸川(現新川)で挟まれた地盤が低い土地であったためたびたび水害を被り、平戸川及び神崎川の流域でも内水氾濫による水害が激化していました。

 このような状況を背景に、平戸村の名主・染谷源右衛門ら数人は、享保9年(1724年)8月に印旛沼の洪水被害を防止することを主な目的とし、さらに新田開発を加えた目論見書を幕府(八代将軍・吉宗)に願い出ました。その頃、幕府は、深刻な財政難に陥り、その解決を担う「亨保の改革」の一環として、享保7年(1722年)に代官や町人が行う新田開発を奨励する高札(幕府の触書を書いたもの)を掲げていたことから、早速、役人に現地を検分させ、染谷源右衛門を工事請負主として、第1.1表〔織田完之(1893):印旛沼経緯記外編から抜粋、第1.2表、第1.3表も同じ〕に示すように、平戸村(現八千代市平戸)から江戸湾の検見川村(現千葉市花見区検見川)までの約4里12町余(約17㎞)の掘割工事を村請負(村普請ともいう)で行うものとする計画の許可と、数千両の資金を貸し付けました。

 しかし、この工事がいつ頃まで、どの程度までに進んだかは不明ですが、工事半ばにして源右衛門及び同士の78名が負債を抱え工事が挫折してしまいました。

第1.1表 亨保期の掘割計画

(2) 天明の掘割工事

 亨保の掘割工事が挫折した後の寛保期から天明初期の約40年間においても、印旛沼周辺では洪水が依然として頻発し、被害をもたらしていました。そこで、印旛郡草深新田(現印西市草深)の名主香取平左衛門と千葉郡島田村(現八千代市島田)の名主信田治郎兵衛は地元の普請として、幕史伊達唯六に印旛沼開削の目論見書を進達しました。この目論見によると、掘り割りは190に区割、そして区割りごとに掘り割り間数、平均幅と深度、面積(坪数)、人夫数、賃金などを細かく計上しており、それらを取りまとめた計画内容は、第1.2表のとおりとなっています。また、この開削事業では利根川の氾濫による印旛沼の水害を防ぐため枝利根川(現将監川)を利根川本流から締め切り、また長門川の上流のマケ俵口と下流の安食口の六観音下に三連の観音開きの閘門を設けることが計画されました。このことによる排水受益地区は144村、そして石高では42,718石(約7,705トン)にもおよぶ壮大なものとなっています。

第1.2表 天明期の掘割計画

 この目論見を受け、徳川10代将軍家治の下で老中田沼主殿頭意次は、天明元年(1781年)2月に幕史を実地に巡検させ、大商人の資金を積極的に活用し、工事成功の際には工事によって得られる新田の8割を出資者の取り分、残りの2割は地元の世話人に分配することとし、印旛沼開墾を幕府直営(もともとの計画は、町人から資金を借り入れ地元で請け負う町人請負)で行うことを決定しました。

 工事は、天明2年(1782年)7月に始まりましたが、天明3年(1783年)7月の浅間山(群馬県・長野県)の大噴火によって流出した火山灰によって利根川の河床が上昇し、辺り一帯に被害が生じたため一時中止されました。その後、工事は天明4年10月から本格的に行われ、作業も3分の2ほどまでは順調に進みましたが、不運にも天明6年(1786年)7月、関東一円にわたって降り注いだ大豪雨によって利根川が江戸幕府開府以来の最大級の氾濫を起こし江戸に大水害をもたらすことはもとより、印旛沼では布鎌新田のマケ俵口の締切り工事(安食水門工事)や掘割などの開削工事がことごとく破壊されてしまいました。江戸幕府は江戸の復旧の見通しが立った時点で、再度、工事に着工する計画でしたが、徳川十代将軍家治の死去や老中田沼意次の罷免が決定されたことによって天明の印旛沼開削工事は完全に夢と終わってしまいました。

(3) 天保の掘割工事

 天明期に大噴火した浅間山から流出した火山灰の堆積によって河床上昇した利根川は、その後の天保期においても洪水を激発、また国内全体においても噴火、洪水、冷害、干害と、天災が続き、飢饉によって多くの餓死者が出ていました。

 一方、当時、江戸幕府はアメリカをはじめ、西ヨーロッパの諸国から開国を強く迫られ、幕府としてもこの非常事態を念頭に内陸運河を整備し、また各地における産物の水運を急ぐ必要がありました。このような社会情勢の中で、徳川12代将軍家慶を支え、老中首座となった水野越前守忠邦は、諸般の事情を鑑み、天保14年(1843年)6月洪水氾濫の防止対策を目的の一つとしながらも、外国軍艦による江戸湾封鎖に備えた国防も念頭に置き、主たる目的として水運(舟運)の整備を重点とする掘割工事の手伝普請を5人の大名に命じ、同年7月に工事に着手しました。この工事の特徴として、国役の御手伝普請のもとに、幕府の設計と監督により掘割工区を第1.3表のように杭で番号化し、各藩の自己資金による工事請負であったこと、また天明の掘割工事において重要視されていた枝利根川(現将監川)の締め切りと安食地先における水門施設の工事は計画されておらず平戸橋を起点とし検見川の海口までの水路開削が主要な工事であったことがあげられます。

 工事は人夫不足や、劣悪な生活及び労働条件による病人の続出、さらには膨大な経費にもかかわらず、約3ヶ月後には、全体計画の9割程度まで進捗しました。しかし、花島観音下(現千葉市花見川区花島町)の渓谷では、“ケトウ”というアシ(葦)やカヤ(茅)の根、又は木根の繊維からなる腐食土が堆積した軟弱泥のため、以前の「享保の掘割工事」と同様、工事がきわめて難儀をきたしていたことに加え、同年(天保14年(1843年))閏9月には老中水野忠邦の失脚などにより、翌弘化元年(1844年)6月に工事が中止されました。

第1.3表  天保期の掘割工事と担当藩

1.2.2 昭和期における開発

 昭和20年(1945年)太平洋戦争の終結とともに、わが国は深刻な食糧難と戦地からの引き揚げ者の失業対策に困難をきたしていました。その解決策として政府は、同年10月に155万haの開墾、10万haの新規干拓、210万haの既存農地の土地改良を行うこととする「緊急干拓事業(食糧増産計画)」を閣議決定、そして翌昭和21年1月にその一環として農林省直轄で行う「国営印旛沼手賀沼干拓事業」が決定され、その10か月後に、印旛沼で2,282ha(手賀沼783ha)の干拓、八千代市~検見川間16.5㎞の疎水路工事の掘削土を利用して検見川地先海面を干拓して435haの畑地を造成、また印旛沼周辺では5,256ha(手賀沼周辺で1,834ha)の土地改良を行うとする当初計画が作成され、12月には成田市宗吾霊堂宝物殿の一室を仮事務所として事業が開始されました。

 しかし、この事業の当初計画は極めて大規模で相当の期間を必要とする、いわば理想に満ちた計画であったため、昭和25年(1950年)には見直しされ、新たに印旛沼疎水路の掘削を基幹工事として昭和29年(1954年)3月に完成予定の第1期事業計画が作成されました。その後、疎水路の用地買収がはかどらず難航をきたし計画はほとんど未施行の状況にありました。

 一方、この間、国内では農家の増産体制が化学肥料の安定供給にともなって整い、国民の食糧事情が変化し始めていました。また、昭和26年(1951年)には千葉県の臨海部埋め立ての先駆け(京葉臨海工業地帯造成)となった川崎製鉄(株)(現JFEスチ-ル(株)東日本製鉄所)の千葉県進出が決定、そして昭和27年(1952年)4月に締結したサンフランシスコ条約に基づく多量の食糧輸入などが相まって、全国的にも、ただ単に食糧増産を第一義とする干拓治水工事は、社会的に方向転換を余儀なくされるようになりました。

 このような状勢のもとで、当初事業計画の印旛沼・手賀沼両沼の一括排水を改め、手賀沼関係を分離した計画とし、昭和29年(1954年)10月には干拓のみではなく周辺起耕地の土地改良事業を含めた干拓土地改良事業の基本方針が決定、昭和31年(1956年)2月に「国営印旛沼干拓土地改良事業第1次改訂計画」が策定されました。

 この事業計画は、一般的には「第1次改訂計画」と称されているもので、主な内容としては疎水路最大水量を93㎥/秒、印旛沼機場の最大計画排水量を80㎥/秒にそれぞれ増やし、また干拓地の造成面積を1,470haとし、土地改良面積を当初計画に近い5,279haに拡大するなど、従来の干拓事業に比べ、むしろ利水との関連で水管理施設等に重点が置かれ、昭和40年度完成を目指すものでした。

 工事は計画に沿って順調に始められましたが、昭和33年(1958年)5月に事業主体の農林省内部において計画そのものに対する批判が生じる一方、千葉県臨海部では昭和32年(1957年)に五井・市原地先、昭和33年(1958年)に幕張地先、昭和34年(1959年)に市川市二俣地先、昭和36年(1961年)に製鉄所(現日本製鉄㈱東日本製鉄所君津地区)の誘致決定にともなう君津市人見地先、昭和36年(1961年)に五井・姉ヶ崎地先、昭和37年(1962年)に千葉市生浜地先などで矢継ぎ早に行われた海面埋め立て地に進出が予想される企業に対する工業用水の需要拡大に対応するため、「第1次改訂計画」の更なる改訂が求められ、昭和38年(1963年)3月には利水工事(水管理)に重点を置いた「国営印旛沼干拓土地改良事業第2次改訂計画」が樹立されました。

 折しも、国では、人口増や急速な産業の発展に基づき需要が高まる上水及び工業用水の確保を目的として、利根川など水系全体の水需要の調整が最重要課題とされ、昭和36年(1961年)11月には水資源開発促進法が制定されました。そして翌37年(1962年)5月には水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)が設立され、これにともなって建設省(現国土交通省)直轄であった利根川水系の矢木沢及び下久保ダム事業を同公団に移管、また農林省直轄の印旛沼干拓土地改良事業も利根川水系の一環として、昭和38年4月に「印旛沼開発事業」と名称を改め、同公団に移管されました。

 事業移管後は、各種関連工事が次々と着工され、昭和41年(1966年)には大和田排水機場工事と、酒直水門及び酒直機場工事、昭和42年(1967年)には捷水路掘削工事、昭和43年(1968年)には疎水路工事と西印旛沼及び北印旛沼堤防工事のそれぞれが竣工し、昭和44年(1969年)3月には一部の未着手地区を除き印旛沼開発事業の竣工式を迎え、これによって承応3年(1654年)の「利根川東遷事業」完成から、実に315年間にわたってさいなまれた印旛沼の水害(洪水)は、その過酷な歴史に終止符を打つこととなりました。

 最後に、今まで述べてきた印旛沼開発事業計画の経緯、概要及び特徴について第1.4表〔水資源開発公団印旛沼建設所編集・発行(昭和44年3月):「印旛沼開発工事誌」より抜粋、一部加筆〕に示します。

第1.4表 印旛沼開発事業計画の経緯と概要